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エリオット女学校へ

23父の親族の申し出を拒否した母は、父が残した遺産をはたいて、とても格式の高いエリオット女学校に私を入学させました。以後13年のあいだ、この学校が私のすみかとなりました。有名な映画スターの子供たちや、ロサンゼルスでも指折りの資産家の子女たちといっしょに、学校の寄宿舎本館の大きな部屋をあてがわれ、そこで厳格な生活を送ることになったのです。授業料はとびきり高かったのですが、母と祖母は私によい教育を授けるために、持てるものすべてを犠牲にしてくれました。

 母は、自分の化粧品の売上げをのばすためにカルフォルニア中をあちこち飛びまわらなければなりませんでしたが、手持ち商品がなくなって製造にかからなければならなくなったときと、週末だけは、かならず家に戻ってくることになっていましたから、決まって週末には母と祖母が面会に末てくれて楽しい時間を過すことができました。

 それにしても、こうした生活は私のいとしい母にとってたいへんきついことだったに違いありません。けれども、彼女は性格的にたいそう強い人で、一度彼女がこうしようと思い定めた以上は、だれもその意志をくつがえすことはできませんでした。そして、母のこの性格は、ずいぶん幼いころから私の中にも注ぎこまれてきたように思います。というのも、私もまた“それはできっこない”という言葉をけっして信じようとはしなかったからです。重病にかかること以外は、問題を解決する道はかならずあるものです。

学園生活

 エリオット女学校へ寄宿したために、母や祖母に会見なくなり、それはとても淋しいことでした。

26 けれども、奇跡が起こったのです。ウェーバーヒいうエリオット女学校の未婚の校長先生には、たいへん年老いたお母さんがいて、この方が重い病気にかかってしまったのです。そして、ミス・ウェーバー校長先生はわたしの祖母に、学校へ来て彼女のお母さんの面倒をみてはもらえまいかと問い合わせてきたのです。それは、私の祖母が寄宿舎に住むこと、そしてわたしのそばで生活するようになる事を意味していました。そこで祖母は、校長先生のお母さんが存命中は、最後まで看護護しましょうと承諾したのです。そうなると校長先生は、さらに祖母に舎監としてもっと長く学校にとどまってくれるように依頼してきました。私が17歳で高校を卒業し、エリオットスクールを離れるまでのおいた、私は幸運にも、私のすてきな祖母を私のそばに置くことができたのです。

 エリオットスクールにいるあいだ中、私は学校のために渉外係の仕事を任命され、新人生か到着したり、あるいは父兄が学校に関してもっと見聞きしたいと望んだときにはいつでも学校内を案内し、こと細かに説明するのが私の役目でした。私の努力の甲斐あって、ミス・ウエーバーは入学希望者を取り逃がすことはけっしてありませんでした。そして、それら人学希望者たちへの私流の接し方に対して、私は大いにほめてもらったのです。

すてきな日本人の友ポール

 学校には、最高に美しい花々でいっぱいのすてきな庭園がありました。ある特殊なつる草がとても成長していて、私の寝室の窓からも見えるほどなのですが、それは“アメリカン・ビュ―ティー”と呼ばれる大きくて深いピンク色をしたバラでした。私はこのバラとその豊かで深みのある色をこの上なく愛していたので、その色をスケッチブックにうつしたりしました。現花私のグウェン化粧品群の容器に見られる色は、その愛らしいバラの色と同じものなのです。

 私はけっしてその色を忘れることはありませんし、それにこの色には、また特別な意味がこめられてもいるのです。つまり、この色の美しさのすべての鍵を握っている男性は、ポール・ハットリという名のすてきな日本人でしたが、彼がこの庭園をとても美しく手入れしてくれたおかげで、それは落ち着いた美しい絵画そのものでした。そして、ポールと私はすてきな友達になったのです。もし私が数学の難問をかかえていれば、ポールがいつも私のためにそれを解いてくれましたし、私が病気になれば、いつでもポールは私に花束をもってきてくれました。その花束の中には、きまってあの私のバラがはいっていました。もし私かふさぎこんだり孤独だったりすると、ポールはいつも忙しい時間をさいて、私を元気づけてくれようとしました。彼はとても親切で思いやりがありました。彼ばかりか、彼の友人や身内の人すべてがとても親切でした。ポールのおかけで、いつも彼らから私を元気づけるための贈り物をもらったりしていましたから、私はすべての日本人を愛するようになったのです。母も組母も、やはりポールが大好きでした。そして毎年、私たちの大きなクリスマスパーティーにはいつも彼にプレゼントが贈られることになっていました。

 私と母がポールに関して最後に耳にしたことは、第二次世界大戦中、日本とアメリカとの戦いで日本に加勢するために彼が日本へ戻ってしまったということでした。けれども彼はアメリカを離れる前に母と私へのことづてをエリオットスクールに託していきました。そのことづてには、「私は私の祖国のために戦いたい。けれども、私はつねにあなたミセス・シーガーさんと、あなたのお嬢さんグウェンさんのことを気にかけています。」と書かれていました。私たちは、この愛情の表明にたいへん感動させられたのでした。

ふたつの出逢い

母は今や、自然化粧品の開発者としての評判を獲得しつつありました。

 ある日、一人の紳士が母の研究室を訪れました。彼は、自分がイタリア出身の有名な化粧品化学者であることを告げました。彼の名はルイス・クレメンテ博士といい、永いあいだヨーロッパの王家や貴族のあいだで使われている化粧品のほとんどすべてを創ってきたのですが、母の自然化粧品のすばらしい調合の話を耳にしたので、今度は母と力を合わせて仕事をしたいと申し出てきたのでした。それは、すこぶる幸運な提携であったと言わなければなりません。というのも、この二人の有名な化粧品化学者が創りだした最高級の化粧品は、いたるところで人々の注目を集めるようになったからです。

 この評判を耳にして、こんどは一人の小柄なロシア移民者が母のもとを訪れました。彼は読み書きはおろか、自分のサインさえ満足にできませんでした。彼の唯一の財産といえば、ある映画会社にいる知人とのコネだけでした。けれども、その映画会社で彼が目をつけたのは、俳優たちがたいへん化粧品を消費するということでした。彼は、野外撮影やスタジオ内で仕事をしている俳優たちに使ってもらうための、何種類かのクリームを創ってくれるように、クレメンテ博士と私の母に依頼しました。

 そこで二人は、その依頼を受けて生産を始めました。一方ロシア移民の男は、簡単な紙のラベルに自分の名前を商品名として印刷し、それを貼りつけて営業を開始しました。まず自分の知人のいるスタジオに持ちこみ、そのスタジオのすべての映画スターたちに、彼の化粧品のみを使用するという誓約書にサインさせたのです。その誓約書を片手に、彼はすべてのスタジオをセールスし、口説きおとして同様の誓約書にサインをとりつけてしまいました。こうして、ハリウッド全スタジオのオールスターが、母の化粧品を使うようになったのです。

33 やがて、彼はその化粧品によって高い評価を受けるようになりました。そこで彼は、もっと大きな利益が得られるように、安い化学物質でそれらのクリームを創ることはできないものだろうかと、母に頼みこんできました。もちろん母は断わり、そしてその男は、自分の要求を受け入れてくれる工場へ去って行ったのです。

 この男が母の研究室を初めて訪れた当初は、いつもすかんぴんで、クレメンテ博士がスパゲティーとソースの大きなナベをストーブの上にのっける昼食どきを見はからってはやってきたものでした。けれども、化学物質を混ぜこんだ化粧品を販売するようになってからも、ハリウッドのスタジオとの関係を保ちつづけて、現在では化粧品業界最大級の会社のひとつとなっています。

 その男が去り、クレメンテ博士も早くに逝ってしまいましたが、母の方はもともとクレメンテ博士の顧客であったヨーロッパの王族たちのために、注文に合わせて自ら調合し、生産し、けっこう忙しい毎日を送っていました。一方、ヨーロッパからアメリカヘ渡ってきた貴族の多くの人たちが母とのつながりをもちたがり、やがて母は、彼らのあいだで親愛の情をこめて“プリンセス・ヘレイン”と呼ばれるようになりました。その名は、長いあいだ彼女の化粧品群の商標として用いられました。つまり、現在の“グソウェン化粧品”の前身は”プリンセス・ヘレイン化粧品”という名であり、貴族社会で愛用されていたわけです。

映画スターたちとの接近遭遇

 母はハリウッドの高級アパートに住み、美しいロールス・ロイスの高級車をもつ身分となっていました。週末になると、私は母のそのアパートヘ訪ねてゆくのがつねでした。アパートの大きくて荘重な夜会室では、土曜の夜になるといつも「ダンスとシャンペンの夕べ」が催され、あらゆるハリウッドの映画スターたちがその舞踏会にやってくるのでした。みなさんの中にもご記億の方がおありでしょう、R・バレンチーノとかR・コールマン、L・ギッシュといった当時の大スターたちを。母は、愛らいし毛皮や宝石をあしらった魅惑的なドレスを着て、いつもこの舞踏会に顔を出していました。というのも、ハリウッドのスターたちはあの移民の男との契約によって彼の化粧品を使わなければならなかったのですが、個人用としては母の化粧品を愛してくれるスターが多かったからです。

 大理石の椅子に坐って、有名な映画スターたちが会場へ入っていくのを見つめていることは、私にとってそれはそれは大きなスリルでした。私はまだほんの少女にすぎませんでしたが、私は彼らをよく知っており、彼らもまた私を覚えていて、通りすがりに言葉をかけてくれるのでした。ことにR・バレンチーノは、いつも私のほっぺに力いっぱいキスしてくれました。彼は、つねにもっとも有名な“スクリーンの恋人”でしたから、学校の女の子たちにその話をするとき、私はクラスメイトの羨望の的でした。

 いずれ私が映画スターヘの道を歩むことになるのも、このころの生活の影響かもしれません。

クラスメイトのこと

 私のクラスには、有名なスターのお嬢さんがたくさんいました。母が仕事で町を離れているときの週末には、しばしば彼女たちの家庭を訪ねました。当時、やはり有名なスターであったB・ブライズのお嬢さんジョアンも、私とたいへん仲好しの友達でした。ある日、B・ブライズは自宅にいて、私が遊びに行くと、彼女の長い黒てんの毛皮と白てんのケープを一日中私に着せて遊んでくれたことを覚えています。

 私にはまた、ルーシー・コットンという名の親友もいました。彼女は、サンクレメビアの大きな地所に巨大なスペイン風の館をもっている億々万長者ハミルトン・コットンの娘でした。私はたびたびこの家庭に遊びに行ったものですから、私専用の客室を設けてくれました。この家こそ、ニクソン大統領時代に西のホワイト・ハウスと呼ばれ、現在でもニクソンと彼の妻パットが往んでいる館なのです。今でも私は、あの私専用の客室を現在はだれが使っているかしらと思ったりするのです。

命の恩人ノラ

 やがて母は、ロサンゼルスに大きな屋敷を買いました。そして家政をみてくれるすてきな黒人のメイドさんに来てもらうことになりました。彼女の名前はノラ・ミラーといい、私が週末に家に帰れるときには、いつも私のために特別料理を作ってくれました。 ある日、私が外を歩いていると空地から火が出ているのに気づきました。火は私たちの家の方へ燃え広がってゆきます。私は隣家の水道ホースをひっつかんで炎を消そうと試みました。けれども、それはほとんど役に立たず、足元の火は私のドレスをも燃やしはじめました。そこヘノラが駆けだしてきて、私を土の上に投げ倒し、ゴロゴロと転がして私のドレスの火を消しとめてくれたのです。文字どおり彼女は私の命の恩人です。私のドレスに焼けこがしは作ったものの、ノラの機転ですぐに消防車が駆けつけ、火を消しとめてくれたので、私たちの家は火災から免れることができました。

 私の心に残るもうひとつの事件が、同じ住所で起こりました。ある日、老いた馬が引っぱっている古いゴミ車が私の前を通り過ぎようとしました。その車の上の男が、あまりにも残酷に老馬をムチで打っていたものですから、私は思わずその馬車に飛び乗りました。これには彼も驚いてムチを放してしまいました。私はすかさずそのムチをひったくると、その通りを下るあいだ中彼をひっぱたきつづけたのでした。その日もまた、ノラが私を制御して救けてくれました。今思うと、ずいぶんお転婆をしたものです。

私の初恋

 私か母のクリームを使いはじめたのは、12歳のころからでした。そして、今や私はエリオット女学校を卒業しようという年齢に達していましたので、初めて母のすてきなメイクアップ化粧品を使って、母にお化粧をしてもらいました。初めてリップスティックやマスカラー、口紅、メイクアップを使ってみたところ、母は、「これからはいつも使うといいわ、それも17歳になったばかりの若い娘なのだからできるだけ自然な感じが出るように使うべきね」と私にアドバイスしてくれました。

 私自身、突然成熟した女性になったような気がしましたし、人からもそう思われるようになりました。私は若い男性に対して、今まで以上に注意を払うようになり、そして彼らも私を注目するようになりました。

 そうこうしているうちに、私はすてきな少年と恋に陥りました。彼の家族は、アメリカでもとびきり大きな、大評判のチェーンストア“J・Cペニーストアーズ”を経営していました。私たちは、18歳になったら結婚しようと約束していました。ところが、それはついに実現しませんでした。というのも、彼が交通事故で死んでしまったからなのです。私の初恋は、自動車によってはかなくも打ち砕かれ、悲嘆にくれる日々が続きました。

社会人としての第一歩

 そんな私を見て、母は彼女の化粧品の仕事に私の関心を向けさせようとしましたが、私は、何でも自分でやってみたい年ごろでもありましたから、繁華街の大きなデパートヘ行き、売子として使ってくれるように頼みこんでしまいました。その仕事につくにあたって私はちょっぴり嘘をつかなければなりませんでした。なぜって、私はまだ17歳だったのに、28歳以上でなければ採用してくれなかったからです。私は月曜から金曜まで、毎日四時間ずつ働いて、ほんのわずかな給料をかせぎました。

 ある日、私と同僚の女の子の知り合いだという魅力的な女性がお店に来て、フォックス映画のスタジオとの契約のもとに一週300ドルかせいでいると話しているのを、私は小耳にはさみました。それは、当時の私にとってたいへんな収入のように思え、デパートの売子という職業がとたんにみすぼらしく感じられたのです。それからというもの、私もスタジオで働くことを考えつづけましたが、それには18歳になっているか、あるいは身元保証人が必要なので、結局あきらめて母のもとで働くことにしました。けれども、チャンスはこれからという年ですから、母の研究室でも腰が落ち着きませんでした。

第3部 社会人になってへ

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